家庭料理研究家奥薗壽子オフィシャルサイト
今日は詩の講座。
今回から新タームです。
前回までのタームでは、詩が分からん、分からんって言いまくって
こんなに分からんのに、やっている意味があるのかって思って
もう、やめてもいいかなって思い始めていたんです。
けれど!!
前回の最後のレジュメで引用されていて吉本隆明さんの文章で
読んでいて意味が分からない詩がある
けれど、意味を知りたいとも思わん
みたいなことが書かれていて
な~んだ、吉本さんも全部わかっているわけでもないのか
そして
読んで意味が分からくても、別にそれを深く知りたいとも思わないのか
な~んだ、な~んだ
って思ったら、なんか気持ちが楽になったんですよね。
詩のことが分からないのは
私の知識が足りないからとか、
努力が足りないからとか
私に詩の才能がないから、とか
そんな風に思っていて
どんどん嫌いになってたからね。
そこから、
詩が「分かる」「分らない」ってどういう事だろう?
ってことを、また、ずーっと考え続けていたら
先生が別の講座で、分かるってことについて話をされていて
そうか!って思ったことがあって
どういうことが分かったかというと
「分かる」と「分からない」って、の裏表の関係じゃなくて
「分かる」と「分からない」はずーっとつながっているんだってこと。
つまり、マラソンで言うと
ゴールが「分かる」だとして
ゴールの手前は、全部「分からない」なのよ
つまり
ほとんどが「分からない」状態なのよ。
ちょっと分かっている場合も
かなり分かったようなつもりになっている時でも
「わからない」ってところにいることにおいては同じで
さらに言うと、どこの「分からない」にいても
全部「分かりつつ」ある状態にある
で、この「分かりつつある」状態って
自分が分かろうとし続けていれば、少しずつでも前に進み続けられる
要は、自分が「分かろうとしているか」どうか、
やめたら終わり、あきらめたら終わり、
「分かろうとし続ける事」それが大事。
もっと言えば
「分からない」って思っているの、
「分かりたい」って思っているのと同じことなのだと思う。
だって
詩のことが「分からない」「分からない」って言いまくっていた時って
心の中では、「分かりたい」、「分かるようになりたい」って言いまくっていたもの。
分からない時の方が、そのものとの関係が深い
って先生がおっしゃってたんだけれど
確かに、それはそうだなって思う
「分かった!」
ってなったら、そのものとの関係は、切れちゃうね、たぶん。
関係が分かれちゃうもの。
そんなことを考えながら
今日の講座を受けて
今日の講座は、これまた、かなり深い内容で
ちょっと、自分なりに整理しないと
今日学んだことが、上手く書けない感じ。
なので、それはまたまた、近いうちに書きますね。
詩の新ターム。
詩のことはわからないけれど、頑張ってみます。
なんかね
新タームは、分からない事ばかりだけれど
ちょっとわくわくしています。
あんなに、詩が好きじゃないって言っていたのに
不思議だけれど、なんかちょっと書きたくなっている
何なんだろう‥。
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